ALPINE A110 BERLINETTE 1300S

13 Septembar 1997Posted by czr

"WORKS RALLY CAR"

フランス人がスポーツカー作りの才能に恵まれないなどという誤った認識は、今日この瞬間をもってきれいサッパリ捨て去ることにした。なにしろたった今コクピットから下りたばかりのリアエンジン・ベルリネットは、基本設計が30年も前だというのに、今もスポーツカー・エンスージアストの魂を揺さぶる強いオーラを発散し続けていたのだ。

フレンチブルーの小悪魔

そのガレージはまさにアリババの洞窟だ。シャッターが上がるとまず最初に目に飛び込んできたのは、今日のためにオーナーみずからエンジンを積み換えて出撃態勢を整えてくれたA110ベルリネット、奥にはSUPER CGに登場したこともあるアルピーヌのルマンレーサー、A210が低く特徴的な肢体を休めている。さらに隣に目を転じるとレーシング・トリムのマツダ・ロータリー・クーペも置かれているし、目を凝らすとオーバーホール途中のシリンダーブロックも転がっている。もちろんgの刻印が入ったへッドカバーと組み含わされるのを待つ、OHVクロスフローの4気筒ユニットである。  しかも今、目の前にうずくまっているフレンチブルーも鮮やかなベルリネットは、ただのA110ではない。シャシーナンバー10870の1300Sは、69年のモンテカルロ・ラリーにまずルゼニューの操縦によって実戦デビュー(結果はリタイア)を果たし、同じ年のNeige et Glaceラリーでは当時エース格のジャン・ピエール・ニコラの手に託され5位入賞を飾った、パリパリのワークス・ラリーカーそのものなのだ。

ALPINE A110 BERLINETTE 1300S

出撃を待つガレージにて

去る者、そして来る者

第二次大戦は他の多くの文化遺産同様、フランスからスポーツカーや高級車を奪い去った。ナチスドイツによって踏みにじられたフランスはヨーロッパ諸国の中でも特に荒廃がひどく、そこでまず国民の足を確保する必要に迫られた政府が、大型車や高性能車を市場から締め出す政策を打ち出したのである。税制上の課税馬力が15CVを超える車には法外とも思える重税を課し、実質的に生産を禁止した。その荒波をもろに被ったのが、戦前に栄華を誇ったドライエやドラージュといった高級車や、タルボ、ブガッティなどの高性能車である。彼らは戦争によって傷ついた体力を取り戻す間もなく、復興の道を閉ざされたわけだ。ソーチックやアンリ・シャプロンによる優雅なボディは年を追うごとに減少の一途を辿り、逆に政府の保護を受けたルノーやシムカ、シトロエン、プジョーなどが作る大衆車が、驚くほどの勢いで繁殖を続けていった。  しかし企業に対しては強いリーダーシップを発揮する政府も、エンスージアストが根源的に持つスポーツ精神まではコントロールできなかったようだ。それが証拠に50年代も半ばを過ぎる頃になると、パナールやルノーといった構造簡潔な大衆車をべースに、スポーツカーに仕立て直すアマチュアのスポーツマンたちが自然発生しはじめたのである。  フランスの港町ディエップで生まれたジャン・レデールもそんなひとりだった。パイオニア・モータリストだった父親が興したルノー・ディーラーの経営を引き継いだ彼は、最初ルノー4CVによってレースの世界に足を踏み入れる。腕前もなかなかのもので、ほどなくルノーのレース部門から援助を受けるようになった彼は、ミッレミリアやアルパイン・ラリー、トゥール・ド・フランス、リェージュ-ローマ-リェージュといった大イベントにも遠征、見事クラスウィンを遂げている。しかし若く血気に溢れ、常に前向きだったレデールは、この結果に決して満足しなかった。豊富な経験から4CVのOHV直列4気筒ユニットに限界を感じとり、その重いサルーンボディに代えて、もっと軽くスタイリッシュなボディを纏う夢にとりつかれたのである。同時代に同じ志を持った身でも、極限のエンジンチューンに挑んだイタリアのカルロ・アバルトとは対照的で興味深い。これこそイタリアとフランスの精神的土壌の違いを表わす、端的な例といえるだろう。幸い資金的な後ろ盾にも恵まれた(パリで世界一大きなルノー・ディーラーを経営するシャルル・エスコフィーの娘と結婚した)レデールは、まずジョヴァンニ・ミケロッティにクーペボディのデザインを依頼、実際の製作はやはりイタリアのカロッツェリア・アレマーノに任せた。このアルピーヌのプロトタイプともいうべきモデルは、レデールの目論見通りすぐに高いポテンシャルを発揮、レースでも緒戦から好結果を連発したばかりか、ミッレミリアの750・クラスでは1~2位を独占するという快挙まで演じてしまう。1955年のことである。これによって自信を深めたレデールは、同じ年のパリ・サロンで初めてアルピーヌの名を冠したスポーツカー、A106ミッレミリアを発表、翌56年から生産を開始した。ルノーのランニング・コンポーネンツを利用して軽量プラスチック・ボディを組み合わせるというアルピーヌのアイデンティティが、ここに確立されたのである。ルノーとの密接な協力体制を築き上げることに成功したアルピーヌは、これ以後べースとなるルノー各車の変化にぴったり歩調を合わせて、進化を繰り返していく。ドーフィンが生まれた翌年の57年には、さっそくその108系エンジンを採用すると同時にシャシーもバックボーンを主体としたプラットフォームに変更、ボディの方もクーペとキャブリオレの2種を用意した。61年に登場するA108はその外装に手を加えたものだ。特にA108ベルリネット“トゥール・ド・フランス”は、その前年トゥール・ド・フランスとトゥール・ド・コルスの双方でクラス優勝を飾ったプロトタイプ同様のファストバック・ルーフを持ち、空気抵抗を意識したスラントノーズの造形や、ボディサイドのエアインテーク形状など、2年後に現われるA110の原形とも呼べるモデルである。 フランス政府の採った戦後の復興政策は、たしかにブガッティやドライエといった貴重な財産を葬り去る結果につながった。しかしそれはまた、アルピーヌという創意工夫に満ちた魅力溢れるライトウェイト・スポーツカーを生み出す原動力ともなったのである。

ハイスピードラリーで育んだ体力

アルピーヌをフランスの土着性の強い一介のスペシャリストから脱皮させ、フレンチブルーを背負って立つインターナショナルな存在にまで押し上げたのが、63年にヴェールを脱いだA110だ。前述したように、その精桿なスタイリングはA108“トゥール・ド・フランス”から大きな変更は特になし、にもかかわらずモデル名が改められたのは、その前年にルノーがドーフィンに変わるニューモデルとしてR8を発表したのを受け、アルピーヌも自動的にR8べースに移行したことによる。  構造面で特に注目すべきは、リアサスペンションが同じスウィング・アクスルでも4CV以来続いたコイルとトラニオンによる旧式なものから、セミトレーリングアームとコイル、それにデュアル・ダンパーによって構成されるタイプへと大幅にモダナイズされたことだ。このサスペンションのポテンシャル・アップこそが、リアエンドに搭載されるエンジンのパワーアップを可能にし、ひいてはインターナショナル・ラリーにおける無数の勝利をアルピーヌにもたらしたといっても過言ではない。事実、55ps/5200rpmを発揮する956・(65×72mm)でスタートしたA110は、以後毎年のようにエンジンをスープアップ、デビューからわずか3年後の66年に追加された1300Sですらすでに、1296・(75.7×72mm)の排気量からオリジナルの2.2倍にも当たる120ps/6900rpmものパワーを生んでいるのだ。チューンを担当したのはいうまでもなく“魔術師”アメデ・コルディーニで、OHVながらダブル・ロッカーシャフトによるクロスフローの半球型燃焼室を持つことは、今さら説明するまでもないだろう。圧縮比は12.0と高く、キャブレターはツインチョーク・ウェバー40DCOEを2連装している。しかもこのエンジン、70年型ではついにリッター当たり100psを突破、同じ排気量のままで132ps/7200rpmものハイパワーを絞り出していたというから驚く。この時期アルピーヌは積極的にラリーに参戦していたから、そこで培ったノウハウが生産型にフィードバックされていたのだろう。特に前年度のワークスマシーンはこれに近い仕様だったはずで、したがって今回テストした69年型のワークス1300Sは、少なく見積もっても130ps以上の最高出力を誇っていたに違いない。  ワークスラリーカーならではの特徴は他にもある。市販ストリート・バージョンでさえ635kgといわれた車重が、FRPのボディパネルを薄くすることで、さらに削ぎ落とされているというのだ。これを仮に600kgとすれば、パワーウェイト・レシオは4kg台前半から半ば、なるほどこれならモンテカルロやトゥール・ド・コルスといったツイスティなコーナーが続くハイスピートラリーで、縦横無尽に暴れまくることができるはずだ。生憎テスト車は今現在ワークス仕様のエンジンがオーバーホール中で、代わりにR8コルディー二から移植した103ps/6750rpmを発する1255ccユニット(74.5×72mm)が搭載されていたが、いついかなる時もパワー不足を感じなかったのは、この超軽量ボディによるものなのかもしれない。

すべては速く走るためだけに

今まで公道を走るフォーミュラという称号は、スーパーセヴンのためだけにあると思ってきた。しかし事実は違う。アルピーヌA110ベルリネットにも、それは当てはまるのである。A110ならどのモデルでもいい、機会があったらぜひその狭いコクピットに潜り込んでみるべきだ。極端に低い着座位置、足を投げ出すように寝そべって座るドライビングポジション、そして身が引き締まるようなタイトな一体感、何もかもがロードカーの範疇を大きく越えている。唯一フォーミュラらしくないことといえば、ホイールアーチの張り出しによってペダル類が中央寄りにオフセットしていることぐらいのものだ。この時代のコンペティション・マシーンとは思えないほどスムーズな感触を持つクラッチをミートしてもこの印象は変わらない。リア・バルクヘッドを通して耳に届くエンジン音、ほぼ目線の高さで飛び去るガードレールの白い帯など、まるでちょっと古い“リアエンジン・フォーミュラ”で公道サーキットを走っているかのようだ。しかもギアシフトの感触は事前に仕入れた情報よりはるかに軽いばかりかゲートも確実だったので、無用に神経を擦りへらすこともない。ステアリングから手を離すとそこにレバーがあり、これなら電光石人のシフトも無理なく行なえる。トップ・ラリイストがよくやるように、カウンターステアを決めながらギアを叩き込むことだって可能だろう。路上を走る車でありながらこのdriver friendlyなコクピット・レイアウトは、さすが最初からコンペティション・ユースを想定して設計されただけのことはある。  だからA110のコクピットに収まると、誰もがごく自然にぺースが上がるはずだ。コルディーニ・チューンのエンジンもそれを望んでいるかのように嬉々として回転を上げる。中でも4500rpm付近からいかにも“カムに乗った”風情で逞しさを増しながら頂点を目指す性格は、前述したようにワークス・エンジンの必要性をまったく感じさせないほど鋭いもので、高回転域でひと際澄み渡るそのトーンとともに、ドライバーをたちまち魅了する。  しかもこのエンジンと絶妙のマッチングをみせるのがギアボックスだ。1~4速が極端にクロースしたそれが、一体いつのどこのラリーに合わせたレシオなのかはまったく不明だが、6000rpmを目安にシフトアップしたこの日のぺースでも5000rpmをそう大きく割り込むことはなく、パワーバンドに釘づけにしておくことなど造作もない。逆に5速はリエゾン用とおぼしき完全なオーバードライブで、一般道ではまことに頼りないレスポンスしか得られないが、たとえば高速道路を利用する時などのことを考えると、実用性もなかなか高いだろう。

ワークスはやっぱり特権階級

テールヘビーの重量配分、スウィング・アクスルのリアサスペンション、現代とは比較にならないタイア・グリップなどから、A110というと手に余るオーバーステアカーを想像しがちだ。子供の頃から、ジャン-クロード・アンドリューやジャン-ピエール・ニコラといった“アルピーヌ使い”たちが、凍ったモンテやコルシカの峠をフルカウンターですっ飛んでいく写真を飽きずに眺め続けた経験も、この傾向に拍車をかけているに違いない。だが少なくとも今ステアリングを握っているワークスチューンの1300Sは、そんな神経質な素振りは金輪際見せない。よほどの無茶を冒さないかぎり、ほとんど理想的とも思えるニュートラル・ステアのスタンスを保ち続けてくれるのだ。ワインディングロードに足を踏み込んだワークス・ベルリネット最大の美点は、誰が何といおうとその軽くシュアなステアリングにある。僅かに手首を返すだけで瞬時にその短いノーズがアペックスに向かい、ドライバーにステアリングを切るという実感すらほとんど抱かせないまま、軽快にコーナーをクリアしていく。しかもコーナリングスピードの高さは、ハイクリップ・シューズで武装した現代のスポーツカーにも劣らない。もちろんタイトコーナーでフルパワーを与えれば強いネガティブ・キャンバーが与えられたリアタイアが執拗に路面を捉え、この時ばかりは必然的にアンダーステアが顔を出すが、そんな時は迷わずスロットルを戻しタックインを利用すれば事足りる。すかさずテールがスライドしはじめるのはいうまでもないが、夢のようにクイックなステアリングを利用すれば修正は比較的容易で、瞬間的なカウンターステアだけで態勢を整えることは充分可能だ。もっともこれは絶対的に軽い車重、それに言い忘れたが市販モデルよりさらにギアリングが速められたステアリング・ギアボックスを持つ、ワークスマシーンならではのシャープな特性といえるだろう。  僅か数時間のはかないデートだったが、それでもアルピーヌのキャラクターを知り、アルピーヌの魅力を理解するには充分な時間だった。もともと憎からず思っていた相手が、これほどの実力の持ち主だったことを知ってしまった今では、真剣に欲しいとすら思う。1959年生まれの僕は、スポーツカーが光り輝いていた60年代を本当の意味で知らない。だが生まれた時代が遅すぎたなどと嘆く必要はない。
あの時代の宝石のようなスポーツカーたちは、90年代も後半にさしかかった今でも、まったく輝きを失っていないことを身をもって知ったからだ。

CG1996年4月号より転載

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